人生は巡る季節の様に

UTMFと別府大分マラソンを目指す!ランニング人生の軌跡

板橋Cityマラソン2018はスタミナトレーニングとなった

 2018年も板橋Cityマラソンへ参加してきた。本年も昨年同様に赤羽のホテルへ前泊して、翌日フルマラソンへ臨んだ。 

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昨年と同様にフルマラソンの準備が全くできていなかったので、「良いトレーニングをしてきた」だけとなった訳である。昨年は30kmのロング走+Jogのトレーニング、今年は5時間LSDのトレーニングを桜の開花時期の荒川河川敷で行ってきたのだ。

 ただそれだけのレースとしか言いようがない。^^;

今回は初めての試みとして、teitterにてつぶやきながら行って来た。その内容は以下の通り。個人的にはつぶやきながらレースに向かい、つぶやきながら戻ってくるというのは面白く感じた。また、次の機会に行ってみたいと思う。

 

南岸低気圧に振り回される市民ランナー

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今年もやってきた南岸低気圧。運が悪いと富士北麓にも大雪がもたらされ、あたり一面が雪に閉ざされ、市民ランナーにとって試練の時が訪れることになる。そして、積もった雪が容易に消えてなくなることは無い。4年前の山梨県陸の孤島と化した大雪以来は車道の除雪は速やかに行われるようになったが、歩道を以前の様に自由に走れるようになるのはかなり先となる。ひとたび雪が降り積もると、状況が戻るには2週間前後はかかる。市民ランナーにとって、南岸低気圧はこの時期は歓迎せざるべき客となる。

2018年1月22日の大雪から1週間経過したが、今年の状況はやや改善傾向にある。歩道の除雪が各所で若干ではあるが行われるようになり、以前は除雪済みの車道を走るしかなかったが、今年は歩道を走ることが既にできるようになっている。もちろん、歩道の無い車道は車道を走るしかないが、全体的にみて除雪体制は年々改善されているようにも思う。とりあえずは、大雪の後でも全く走れないことはない。

年明けにはあった右膝外側の違和感は、このところの休養が利いているのか、少々のジョギングでは感じることはない。何が原因しているのかは分からないが、キロ7分くらいのスローペースで10km程度までなら違和感は出ない。

3月のフルマラソンに向けて今の状況の中で果たして何ができるか。あと2ヶ月弱の間に30kmロング走を何度か実施することを試みたいとは思うが、まず無理かと思われる。今の状態ではたとえスローペースでも15~20km程度で右膝の違和感が発生し無理に距離を延ばそうとすると違和感が激痛に変化する瞬間がくるに違いないのだ。

であるならば、キロ7分で10kmから様子を見つつ徐々にペースや距離を上げていくしかない。結果としてフルマラソンを走れるレベルに到達しない可能性もあるが、それはそれでよしとして、3月のフルマラソン当日の状態に合った走り方にすればよいのだろう。キロ7分のイーブンペースで42.195kmを走ることになるのか、あるいは、昨年同様キロ6分で30kmまで走って後は失速ジョグとなるのか、その中間か。

南岸低気圧にはこの後2月、3月の間も何度も脅かされることになろうし、実際に南岸低気圧の影響で全く走れない期間があと何度か発生することであろう。まあ、すぐに雪の解けない富士北麓に住む運命と捉え、その中でできる限りのことを行うしかない。やろうと思えば、雪の積もっていない場所に出向いて走ることだってできる訳であるから。

しかし、UTMF2018は抽選で外れたが、もし当選していたら山のトレーニングはどうしていただろうか。富士山麓でのトレイルランニングは3月いっぱいくらいは無理だろうから、やはり走れる山に遠征する必要があったのだろうか。あるいは、雪が消える3月くらいまではロードで走り込んで、4月のわずかな期間だけ山に行くということになるのだろうか。UTMFが4月末になった時の冬季1月~3月のトレーニング内容はどうしたものか。何れUTMFに当選した時には頭をまた悩まされるのに違いないだろう。

またもや腸脛靭帯炎か(2012年以来)

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2012年の東京マラソンで自己ベストを出した訳であるが、走り終わった後に痛みを感じ、結局それが原因で腸脛靭帯炎として約半年間はまともに走れなかった。そして、実は2009年にも腸脛靭帯炎で走りたくてもまともに走れないという状況に甘んじざるを得ない期間を過ごしている。何れも負荷のかけ過ぎが原因と思われる。

そして、今回、2017年12月にもやってしまった調子に乗ってオーバーワーク。足腰のひ弱さに見合ったトレーニング負荷を維持しながら徐々に負荷を上げていくことが必要だったが、今回も焦り過ぎた訳だ。

 現状、しばらく走らずに過ごし改めて走ると、たとえゆっくりでも7~8kmに近付くと右膝の外側に違和感が起こる。おまけに以前からだましだまし走っている右膝の内側にも出るが、こちらは何とか走り続けることはできる。しかし、外側の違和感は経験的に言って、無理して走り続けているとある瞬間からいきなり激痛に変わることは予想できる。

この分では、3月の板橋Cityマラソンはかなり厳しい状況になった。無論、DNSのつもりは無く走るには走るが、サブ4とか自己ベストとかを目標にすることは不可能になってしまった様だ。あと2ヶ月の間に十分なロング走等のマラソントレーニングは無理なので、トレーニングの一環としての出場が現実的であろうか。

せいぜい、LSDとしてキロ7分~7分30秒ペースで5~6時間くらいを想定してのフルマラソンとなるのか。しかし、如何にスローペースでも右膝の外側の違和感が激痛に急変しないとは限らない。途中歩きつつという余り面白みの無いレースとなろう。あと2ヶ月は状況を見ながらのトレーニングを継続するしかない。

12月にいきなり頑張り過ぎたのが原因だが、10年前と全く同じことを繰り返している様だ。5月以降のトレイルレースの予定もまだ検討中。実際に以前は腸脛靭帯炎の時には山歩きをしているうちに知らず知らずのうちに完治したということもある。3月のフルマラソンの次のトレイルレースを考えることにしよう。

ランニング人生としての2018年の展望

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2018年が明け、これからのランニング人生としての一年間を思い描いてみたいと思う。

まずは、目標設定をというところであろうが、それ程に身体的な余裕というか、これからを展望できるような要素も余りないように思うのが前提となってしまう。

フルマラソンの記録をまたしても狙いたいと思ってもそれを達成でき得るトレーニングを実施できる条件が整うとは思えないし、ウルトラトレイルの完走を目指してもそれに対応できるスタミナが整うにはそれなりのトレーニングの質と量が必要となろう。

何れにしろ、50歳を超えた一般市民ランナーの身体的退化現象に抵抗しながらの悪あがき的な姿を自分で認めなければならないのは必至であることは間違いない。

「果たしてこれから一体何ができるであろうか!?」というところから始めなければならない。市民ランナーとしての日々のトレーニング内容と実際のレースの結果等に対して、それぞれの目標を設定してみることになる。日々の生活面やレースに対するチャレンジという視点から、とりあえずの今年2018年の展望の様なものを考えてみたい。

早朝ランニングの定着

 

まず第一にランニング生活の基本として朝型生活が大前提となる。早朝日の出時刻を目安として早朝ランニングを行いたい。河口湖の極寒の冬の早朝時間帯はさすがに走るのは厳しい。しかし、それを当たり前のこととして捉えるのではなく、早朝時刻の気温次第では早朝ランニングを実施できるという気概で攻めの気持ちは忘れてはならない。春先3月くらいから早朝ランニングを実施、そして年間定着させていくことを念頭に起きたい。

フルマラソンのサブ4復帰

 

2014年の板橋cityマラソンでサブ4復帰を果たして以来はこれまでの3年余りはフルマラソンは全く精彩を欠いたというか、もうタイムの短縮・自己ベスト達成はもう無理なのではないかと思うくらいの低迷であった。フルマラソンのトレーニング自体を怠った原因もあるが、50代でサブ4は年齢的に無理かとも思える状況であった。

まだまだマラソントレーニングを十分に行えばサブ4は愚か、自己ベスト(3時間45分)更新、そして、サブ3.5も可能だとはまだまだ思っている。

まずは、サブ4を達成し、そのトレーニングレベルを維持し、その次に自己ベストを狙うことを目指したい。自己ベストの後に別府大分マラソンが見えてくるだろう。

ウルトラトレイル完走(UTMFエントリーポイントの獲得)

 

UTMF2018はエントリーはしたものの、抽選で落選した。また2次募集があるものの、競争率は激しい。まずは、基本的にUTMF2019のためのエントリー資格のためのポイント取得を目指し、ポイント対象となるウルトラトレイルにエントリー及び完走を目指すこととしたい。ポイント取得が無理だった場合には、UTMF2019ではなく、STY2019のエントリーとなることも視野に入れる。正直なところ、UTMFを完走するだけのスタミナには遠いことは明らかであるので、とにかく70km超のウルトラトレイルで感想とポイント取得を合わせて目指すことを目指すのが順当なプロセスかもしれない。

 

様々な目標を掲げたとしても、それを実現するにはトレーニング量を以前の2011年の頃(月間平均200km)に戻すことが必要である。そして、日常生活の中で早寝早起き朝型生活を基本に、早朝トレーニングと日常における仕事をバランスよく集中して取り組んでいくべきだろう。

規律ある日常生活あってのランニング生活といってよい。

 

2017年を振り返ってみると

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2017年の取り組みを振り返ってみると、相変わらずトレーニング不足の中でこれと言った結果には余り結びつかないことばかりやっているということを痛感せざるを得ない。

2017年3月の板橋Cityマラソンで30km以降の大失速で5時間に迫ろうかというタイムを記録した後は、5月の飯能アルプストレイルランは最終関門でタイムオーバーのリタイアとなった。

飯能アルプスでは永遠に続くのではないかと思わせるアップダウンの繰り返しにより撃沈という表現が正しいかもしれない。トレーニング不足でもあったが、余りの急坂のアップダウンの繰り返しに心が折れたというか、もう飽きたと言えよう。コース自体は非常に良いトレーニングになることは間違いない。

そして、2017年の夏のシーズンも主に富士登山が中心となった。例年通りにロードを走ることは少なくなり、かと言ってトレイルランを行う訳でもなく、富士山に登る以外のことに力を費やす気になれなくなる。今夏は7回富士山に登ったが、8合目から上は全く体が動かなくなることには毎年変わりない。9月の武尊山スカイビュートレイル70kのためのトレーニングにはとてもならず、自己満足だけで終わった気もする。

9月の武尊山70kは完走は果たしたものの、50km以降はお得意の失速となった。ほぼ歩きでゴールしたが、これも甘い制限時間に寄るところとなる。これにより、UTMF2018のエントリー資格をクリアできる8ポイントが揃い、10月にはUTMF2018へ初エントリーを果たすのだが、つい先日抽選で落選となったばかりであるのだ。

このように2017年を振り返ってみると、取り立てて何をやったかと言えば特に何かやったという気もほとんどしない。2017年は結果的に、唯一、UTMF2018にエントリーすることだけを目指してきた様な展開となった様だが、抽選で落選という結果を受けて全く意味の無かった一年だった様な気持ちにもなっているという訳だ。

しかし、次なる目標を定めて歩き出さなければならない。例のよって、春のフルマラソンにエントリーすることで、まずはこの冬を乗り切らなければならない。東京マラソンは抽選で外れているので、昨年同様に板橋Cityマラソンにエントリーはしている。ここで目指すはサブ4。そして、UTMF2019のエントリー資格を得るためには70km級のウルトラトレイルレースを2018年の10月までに2つ完走する必要がある。トレイルのエントリーはまだ未定だ。

とにかく、今後やるべきことは、3月の板橋Cityマラソンに向けて、あと4ヶ月、サブ4を達成できるレベルのマラソントレーニングを行うことである。もう二度と「トレーニング不足だから・・・」という様な言葉を発してはならない。

独自ドメインブログ、またもや挫折へ

もう何度目になるのか、またもやブログの引越しとなった。ブログのタイトルを以前の『人生は巡る季節の様に』に戻した。ジャーニーランニングを目指すことには変わりは無い。

少なくとも、独自ドメインを取得してWordPressでブログを書いていたのをやめて無料ブログへ退散するのは、これで2度目である。ブログの引越しが可能な場合はその都度行っていた。今回のHatena Blogでは簡単に引越しができたという訳である。

やはり、独自ドメインで続けていくのは私には難しかった様だ。特に継続的に書き続ける意欲が無い限りは、どうしてもブログ更新は滞りがちなる。書きたいことを書きたい時に書く個人ブログであれば、無料ブログで十分ではあるのだ。

いきなり独自ドメインを取得して書き始めるのも、余程の事が無い限りは続かない。無料ブログで気軽にそこそこ書き続けていくことができて初めてその次を考えるべきであるのに、気軽な無料ブログですら続かないのであるから独自ドメインは荷が重い。

手書きで書いているランニング日誌は2017年になってからまだ続いている。これは日々のトレーニングに関することをつらつら書き付けているだけである。これはこれで続いて俳句であろう。一方、ブログでは今後の方向性や構想等が中心となる。何かモヤモヤとした心の状態の時に、ブログを通して自らと向かい合い、考えをクリアにしていくという意味合いが強いのだと思う。日々の手書きのランニング日誌はあくまで日々の記録になるであろう。

富士登山競走の魅力を考える

移住するきっかけとなった富士登山競走

東京から現在の富士河口湖町へ移り住んだのは富士登山競走がきっかけだったと言っても決して過言ではない。しかし、富士登山競走のために移住したのではなく、富士登山競走に出たが故に富士北麓へ移住することになったのである。

2011年3月11日の東日本大震災の発生により、その年それ以降のマラソン大会が次々に中止となっていった。私がエントリーしていた3月の板橋Cityマラソンと翌月4月のかすみがうらマラソンも開催中止となった。そして、エントリーはしてはいなかったUTMF/STYも中止となった。(その後の翌年再募集のSTY2012にエントリーしている。)しかし、2011年の富士登山競走は、7月ということで開催に漕ぎ着けている。私は2011年の富士登山競走の開催を信じて、その年の3月22日に始めて五合目コースにエントリーしている。今から思えば、よくぞクリック合戦を勝ち抜いたものだと思う。

そもそも、何故、富士登山競走に出たいと思ったのか。東京マラソンに魅せられてフルマラソンのトレーニングを始めた頃は富士登山競走には余り関心はなかった。しかし、徐々にトレイルランニングへ興味を持ち、富士山一周のUTMFの構想が明らかになるにつれて、富士登山競走にも関心を持ったのだ。

一方で、東京を離れ地方へと移り住むことを考えていた。その候補地の一つは富士山麓だった。その富士山麓を頻繁に訪れるようになり、霊峰・富士を目の当たりにするにつれ富士登山競走への憧れも強くなっていった。そして、2011年についに五合目コースへのエントリーに成功することになるのだ。富士登山競走・五合目コースは何とか山頂コースの出場権を得て完走できたのだが、五合目コースが終わった後に参加した富士河口湖町主催の田舎暮らし体験講座で出会った人のお世話になり、実際にはその一年後には富士河口湖町に移り住むことになる。

富士登山競走へは過去2回出場した

2011年の富士登山競走・五合目コースは山頂コースへのエントリー資格を取得することを目標としていた。当時の山頂コースの参加資格は五合目まで2時間30分以内のタイムでの完走が必要だった。そして、実際の山頂コースの五合目関門がスタートから2時間20分だったので、参加する五合目コースの目標を2時間20分以内としていた。

当時はまだ東京に住んでいたので、トレーニングは平地でのロードが中心となる。近所の荒川河川敷を走るしかなかったが、気休め程度に土手の坂道や公園の階段を昇ったり降りたりする以外には富士登山競走のためのトレーニングはできなかった。今まで富士山に登ったこともなかったので視察は必要と思い、一度は馬返しから五合目までを普通の登山、二度目は富士山駅から五合目までを往復したのだった。そして、二度目の試走の中ノ茶屋の手前で、既にこの富士登山競走の過酷さを思い知った。これは普通のレースではないと。

2011年の富士登山競走・五合目コースのレース本番は、順当に行けば2時間20分前後で完走はできそうな感触を予め持ってのスタートだった。そして、初参加なりの気楽さもあった。まずは馬返しまでは歩かないことを目標にしていたが、やはり馬返し手前の上りが急になってくるところで歩いてしまった。馬返しから登山道に入るところで渋滞が始まり、あとは流れに沿っての展開となる。しかし、前の人の後ろに引っ付いて上っているだけでは思わぬ失速を招くと思い、スペースができたら追い抜きをかけるということを繰り返して前に進んでいった。まあ、五合目コースの中盤からのスタートとしては、それが精一杯のレース展開であったと思う。

2011年の五合目コースでは2時間21分でゴールして、翌年以降の山頂コースのエントリー資格を得た。しかし、2012年はエントリーせず、2013年に現在の富士河口湖町へ移り住んだ後にエントリーするに至った。2013年は目と鼻の先に富士山がそびえ立っている環境での山頂コース出場となった。レース本番前には何度か富士山五合目から山頂までの試走を繰り返し、自分なりに山岳対応は十分できるとの見込みであった。2時間20分の五合目関門をギリギリでもクリアできれば、そこから何とか本八合目の関門、そして、ゴールの山頂と制限時間ギリギリで到達できるのではないかという期待を持ちながらスタートラインに立てる状況ではあった。

スタートはCブロックの前方に陣取って、Bブロックの人をかわしながら前方へ這い上がることを想定していた。そして、五合目を過ぎてからが本当の勝負だと心に決めてスタートを切ったのだった。しかし、想定外の事態が待ち受けていた。北口本宮富士浅間神社までは快調に進んでいったが、中ノ茶屋に向かう上りのロードを走っている最中に妙にスピードが上がらないことに気が付く。脚の動きが鈍い。そして、今までは追い抜いてきたのに今度はどんどん抜かれていく。中ノ茶屋を過ぎて、坂道の勾配がきつくなるに従って、更に失速し、既に思う様に走れなくなっていた。余りに遅過ぎる。後ろからどんどん抜かれ、最後尾になるのではないかと思うくらいだった。そして、馬返しに到着したのは、2011年の五合目コースの時よりもかなり遅かった。そして、そこからは五合目関門まで挽回すべくペースを上げた。速歩でガシガシ進んでいるうちに、気のせいか少々調子が出てきたようにも思えた。でも、五合目関門はもう無理かなと思わざるを得ず、とにかくできる限り前に前に進むことしかできなかった。

そして、滝沢林道に出た所で2時間20分が経過した。その後はもう惰性で五合目まで到着し、2時間24分台だった。結局、馬返しからの追い上げも無理だった。その翌年の山頂コースのエントリー資格の2時間25分はクリアしたが、ようやく体が動いてきた時で、よしこれから山頂へ!という調子だったので非常に残念だった。その年の失敗の原因は、明らかにロードの練習不足だったと思われた。2013年は確かに山へは向かったが、ロードを走ることが激減していたのだ。それも坂道を走るくらいなら、山登りをしていた。馬返しから先は自信があったが、トレーニングで馬返しまでのロードを走ることは全くなかった。馬返しがスタート地点だったら善戦できていたかもしれない。

とにかく、2013年の富士登山競走・山頂コースは五合目関門を突破することができず、惨敗だった。その後、エントリー権はあったもののエントリーには至らず。もし、再度エントリーすることがあるのであれば、五合目コースから出直すことを考えていたが、その時はまだ来ていないし来るとも限らない。今後、五合目関門が2時間10分となれば、ますます五合目エントリーから再挑戦する機会はなくなっていく。しかし、完全に諦めてしまった訳ではない。

富士登山競走の魅力

富士登山競走の魅力は、日本一の最高峰の山に駆け上がるということもあるが、富士登山競走自体がどのカテゴリにも属さない独特のレースであるということにあると思う。ロードレースでもなく、トレイルレースでもない。ロードレースの一面やトレイルレースの一面もあるだけでなく、標高3000mの山岳対応も必要となる。五合目以上の登山道には岩場があったりと、あらゆる総合力が必要となる。スピード、筋持久力、心肺能力、高山病にならない山岳対応力などが求められる。

富士登山競走の一番の魅力は、レースに対応するための様々な能力を身に付けるための機会があるということの様の思う。フルマラソンで言えば3時間30分程度の実力が必要とされ、登山道を一定ペース以上で上り続ける筋持久力も身に付けなけばならないのだ。平地を走るスピードだけあってもだめで(もちろんスピードがなければもっとダメ)、坂道を登るスピードもないとならない。更に、標高3000mレベルでも高山病にならずに体を動かし続けられる山岳対応力がないとならない。

これらの様々な富士登山競走のコースのシチュエーションで、それらに対応した能力を発揮し続けないと4時間30分以内の完走まで至ることができないのだ。逆に言えば、それが魅力となるのではないだろうか。フルマラソンのシーズンに持久力を磨き、春先から坂道ロードを駆け上がる筋持久力を磨く。そして、坂道ロードから登山道へと移り、夏山シーズンには3000m級の山岳対応力を磨く。これら全てに対応する機会を与えてくれるのが富士登山競走である。

富士登山競走の最大の魅力とは、夏の富士山の頂に到達するための多様な環境に対応するために一年かけて取り組むことにあるのかもしれない。そして、自分自身の持てる全ての総合力を持って挑戦し、力を発揮できる機会を与えられることであろう。更に、完走を果たし山頂で実感する清々しさこそが、最高の魅力と言えるのかもしれない。