人生は巡る季節の様に

UTMFと別府大分マラソンを目指す!ランニング人生の軌跡

【再考】情報発信の目的

そもそもブログを書く動機は何だったのか。
そして、フェイスブックツイッター等のSNSを利用する目的は何か。

元々ブログは日記の延長線上にあった。
紙の大学ノートに手書きで日記を書き付けていたのは、もう30年も前のこと。
そして、パソコンが普及し、インターネットが社会的なインフラとなり、更に携帯電話が登場しスマートフォンに進化するまでになっている。
その間に、ブログを日記代わりに文字入力することで、ネットによる不特定多数の第3者とのコミュニケーションが発生した。更にSNSの普及により、そのコミュニケーションが多重化しているのが今現在ではないだろうか。

元来、日記とは自分自身と向かい合うツールであったように思う。
日々、人生の方向性を見つめ直し再確認するための心の作業が日記を書くことだった。
そして、その日記は非公開が原則であり、公開するための方法は出版という形しかなかった。

しかし、ブログが普及するにつれ、いとも簡単に日記を不特定多数に公開する手段が整った。更にSNSが日記という概念を壊したように思う。
つまり、余りにも簡単に、深く物事を考えずに自分のことを公開したり自分の感情表現を伝達したりすることが可能となった。人間関係もリアルな旧来のものと余りにも軽すぎるネット上のものに多重化した。
そして、後者の人間関係に多大な労力を費やさざるを得ない状況に陥る場合も少なくないのが現状である。

では、ネット上による情報発信は無駄なことかといえば、そうも言い切れない。
もっとも好みの問題かもしれない。
検索エンジンの登場により、自分自身がネット上に垂れ流しているだけだと思われる情報が、全く見ず知らずの第3者にとっては大いなる価値を持っているかもしれないという世界がより身近なものになっているのは周知のとおり。
ネット社会以前には考えられなかったことである。自分のことが誰かの役に立つなんて。

私も何度も完全にブログすらやめて紙の上の自己完結した世界に戻ろうとしたが、自分の情報発信がほんの少しでも誰かのために何らかの役に立つとしたならば、それがたとえ世界で1人のためだけであったとしても自分の存在価値は微小にあるという思いにいつも帰ってくる。

自分もネット社会の進化発展の流れと共に様々なネットサービスを受け入れてきたと言える。
ブログを立ち上げ、ツイッターでつぶやき、フェイスブックで「いいね」と伝える。
ネットコンテンツをシェアしたり、ランニングであればジョグノートに走った距離を記録する。
そして、それぞれのサービスを連携させるなどして、自分自身にとってどんなサービスの利用方法や日々の活用手順が良いのかを模索してきた。
一度、利用を中断したサービスもあれば再開したものもある。
全てを中止して紙上の世界に戻ったこともある。

まだまだその模索は継続していくと思われるが、一つの方向性はやはり日記の原点である『自らと日々向かい合う』という心の作業がもし無くなってしまったら、人生に深さを失ってしまう。

現状、やはりブログによる日々の記述こそがそれに一番近い取り組みなのかもしれないと今更ながら思うに至る。自らの人生の希少価値を信じるためにも、思いが込められた情報発信は必要とされるべきものになると考える。

一過性の無限連続体であるSNSによるコミュニケーションに力を注ぐよりも、日記の延長線上にある希少価値を込めたブログの日々の記事にこそランニング人生の軌跡を費やすべきなのかもしれないと強く思う。