人生は巡る季節の様に

ランニング人生の軌跡

お茶摘みからランニング人生を思った

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山梨県某所のお茶畑)

本日はお茶摘みの手伝いということで山梨県の山間部に向かった。
その場所はウルトラトレイルでも登場するような山あいで、山の中腹にひっそりと存在した。
もちろん、お茶摘みは初めての体験だった。

お茶の葉の新芽を摘んではカゴへ入れていく。その繰り返し。
最初は慣れない手つきで試行錯誤が続いたが、しばらく続けると徐々にタイミングよくスムーズに体が動くようになっていった。
そして、気がつくと無心になって時を忘れてお茶摘みに没頭している自分に気付く。

単純作業ではあるが、そこには自分の邪念が一切なく、正に自然界に自分が溶け込んでいるかのようだった。
お茶畑とお茶摘み作業と自分自身が一体化したかの様な感覚である。

この感覚はランニングにも通じるところがあるなとふと思う。
無心に走る自分自身は正にお茶摘みをする自分自身と同じだった。

以前、ランニング自体にその価値は内在すると言った。
何かのためのランニングではなく、ランニングそのものに意味があると。
誰から強制されるわけでもない。何かの目的のために行うのでもない。
ランニングそのものの中に意味があり、人生があるという感覚。

お茶摘みも全く同じ。
別にアルバイトでもない。報酬という見返りを期待するわけでもない。
新茶を飲みたいからでもない。ただ、その行為自体だけに意味がある。
無心に心を空っぽにして新芽を摘み続けるその瞬間に人生がある。
そんな感覚である。

私はまだまだランニングそのもの自体に価値を見出しているとは言えない。
まだまだ走ることには目的が伴っている。
もちろん、目的はあって当然。しかし、目的がなくても走ることに価値が見出せるか否かで今後のランニング人生が充実度を増していくかが分かれる。
この先、体力が減退し続けていく残されたランニング人生を楽しく送ることができるかがそこに出る。

お茶を摘みながら、そんなことを考えていた。