人生は巡る季節の様に

UTMFと別府大分マラソンを目指す!ランニング人生の軌跡

霊峰富士への登山は登拝と呼びたい

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(富士山頂上浅間大社奥宮は今シーズンは改修中)

昨年2013年に富士山は世界文化遺産に登録された。
その登録名称には「信仰の対象と芸術の源泉」というサブタイトルがついている。
スバルライン有料道路にて五合目まで一気に行ってしまうのではなく、吉田口登山道の一合目手前の馬返しから五合目まで自分の脚で登ってみると登山道には多くの信仰遺跡が廃れつつなりながらも残っているのが分かる。

そして、五合目から上においても数多くの信仰遺跡があるにはある。
しかし、十分に注意していないと気付かないのも事実であろう。おそらく、多くの人は山を登ることのみにしか関心が無いか、目の前ことのみに集中し過ぎているか、あるいは苦しくて信仰遺跡どころではないかの何れかであろう。

しかし、古来からの富士山信仰を知るに従って、富士山への登山は単なる観光登山や山登りというレベルのものに留めてしまってはならないものだと気付く。
何のための世界文化遺産かを紐解くと自ずと分かる問題であろう。

神仏習合の時代には富士山は仏教の立体曼荼羅の如く、数多くの神仏が登山道から山頂まで存在した。多くの人々が何かを求めて登拝していたのだ。連綿と続く古来日本人の精神文化がそこにあると思うと、決して富士登山を「アタックする」だとか「征服する」などという表現で言うべきではないのは当たり前のことの様に思う。

所詮、今も昔もご利益を求めての登拝であることには違いないかもしれないが、現代の方が余りにも感謝の念が少ないようにも見える。
私も富士山をトレーニングとして登ることに対して申し訳ないながらもそれはそれで認めざるを得ない。あるいは夏場に精神を、心を整えるために富士山に登るのは間違いないことだ。

しかし、山頂に登って帰ってくるだけではなく、せめて山頂に登ることを日頃の全てに対する感謝の念を表す良い機会として捉えようと心がけている。
スバルライン五合目の小御岳神社、八合目の元祖室の烏帽子岩神社、9合五勺の迎久須志神社、そして、山頂の久須志神社、浅間大社の頂上奥宮では手を合わす。
日本の平和・世界の平和は少々大げさなので、頂上まで登れたことに深く感謝して、「多くの人がそれぞれの人生を精一杯生き抜くことができますように。」と心の中で思う。

そして、大内院を見下ろしながらオハチ巡りを一周する。
八葉の峰々を巡りながら、信仰遺跡でもある銀明水、金明水を見て、昔の人はここの水を求めて富士山を登って来たのか等と思いながらそこを通過する。

剣ヶ峰まで登り、日本最高峰で清清しい気分にもなる。


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釈迦の割石。

富士道者達がこの場所で修行を積み、入定を果たすことを望んだ場所だ。

小内院越しに毎回眺めつつ、冨士道者達の富士山信仰に思いを馳せる。



そして、登拝とは、決して霊山・霊峰と称される山へ登ることだけを指すのではなく、山を登ることを通して自分自身と向かい合い、残された人生を精一杯生き抜くことを改めて心に誓う心の作業なのかと改めて思う。


今後も富士山だけではなく、霊山と呼ばれる山々、もしくは山頂などに信仰遺跡があるような山に登る時には常に登らせていただくという謙虚な気持ちを心がけたい。